わたしの砂時計        

サラサラと流れていく日常を ほんのひと掬い 時々ピアノ 時々愚痴と毒吐き

慶應高校の「塾歌」



昨日の高校野球、慶應対広陵、
慶應が勝ったので、テレビに合わせて「塾歌」を歌いました。
久しぶりに歌った・・。

塾歌って・・学習塾の歌じゃないですよ。

慶應義塾大学の校歌です。
「若き血」が校歌だと思っている人が結構いますが
違います。
そういう私も入学するまでは「塾歌」なんて
聞いたこともありませんでした。

東京六大学野球で、7回にエールの交換があり、
そこで塾歌を朗々と歌います。
何ていい歌だろうと思いました。

慶應高校もこの「塾歌」が校歌ということは、
系列の幼稚舎、中等部、普通部、女子高なんかも
そうなんでしょうね。(良く知らない)

セレモニー以外は滅多に歌わないけど
名曲だと思います。
3番まで全部歌詞を覚えています。

卒業して早52年。大学も随分様変わりしてしまったので
「母校愛」があるかと問われると複雑ですが、
塾歌は、間違いなく心に刻まれています。

ついでに言うと、私は英語の教育実習を
慶應高校でやりました。
母校の高校は遠いので通うのが辛い。
慶應高校は自宅から一駅と、近かったから。(怠惰な理由)
なめられないようにビシビシやりました。
いい思い出です。
旗

(10:33)

 
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常夏で、地震が無い国、マレーシア



ドリアンからの、マレーシアの思い出。

1975年~1979年まで4年間住んだマレーシア。
クアラルンプール郊外のPJという所でした。

雨季はあるけど、一年中夏。
衣替えも寝具の入れ替えも
炬燵出したりストーブ出したりも
一切ない。
らくちんこの上ないです。服装はぺらッと一枚。
素足にサンダル履きでどこへでも行けます。

そして何より、地震というものが無い。安心。
インドネシアは地震国なのに、なんでだろう。

4年間に長男、長女を出産しましたが、病院も快適でした。
当時金持ちだった日本人は、地区一の病院のシャワー付き個室。
食事はメニューから選び放題。(病院なのに)

家族で赴任してきていた奥様達は、帰国が決まると
一様に「帰りたくない」と言っていました。
私もその一人です。

マレーシアに渡った時のカルチャーショックより、
帰国してしばらくの間義両親と同居した時の
カルチャーショックの方が、余程大きかったです。
親戚付き合いとか村社会とか、息が詰まりそうでした。
まあ、人間何でもしまいには慣れてくるものですけどね。

夏が来れば思い出す。
はるかな尾瀬・・・じゃなくて、マレーシア。


ネガラ


(12:44)

 

大学受験シーズン・大学受験の思い出



私立大学の入試が始まりました。
大学受験シーズンに突入です。

団塊の世代の我々は、何しろ人数が多かったから、
競争の連続。大学入試の倍率も凄かったです。
私は1949年生まれですが、早生まれなので学年は
1948年の人と一緒。

r w  k

文系だった私は、東京六大学のうちの三校
R大の英文、W大の教育学部英語英文、K大の文学部を受験しました。

幸い三校合格しましたが、選べるのは当然一校だけです。
校舎が一番素敵だったR大は、自宅から一番遠く、
池袋駅がガラが悪い(当時は)というので、
せっかく入学金まで納めたのに却下。

ずっと憧れていたW大は、受験に行ったらキャンパスが汚くて(今は綺麗)
トイレは下品な落書きが一杯で、幻滅。高田馬場駅から遠いのもネックで
(当時は駅から市電でした)、入学手続きしませんでした。

K大は、1年の日吉キャンパスが実家から近いことが決め手で
選びました。(理由が何とも下らない・・)
しかし、文学部は1年では専攻を分けず、2年に進級する時に
希望者が多い専攻はテストでふるいにかけることを
入学してから知りました。(今はどうか知りませんが)
なので1年の時だけは手を抜かず勉強しました。

偏差値だけで判断して受験を決めても、入ってみてから
その大学と肌が合うかは入学してみないと分かりません。

当時は学歴偏重社会とか言いましたけど、
私は後に田舎に嫁いだから、学歴なんて関係ないというか、
周りが大学のことなど知らないというか、
学歴で得をしたこともないし
役に立ったのは就職、再就職の時だけ。

今大学を目指す人たちは「大学で何を学びたいのか」を
明確にして、4年間を無駄にすることなく過ごしてほしいです。
(と、偉そうに言ってみた。)

人生を俯瞰できる年代になってから、自分の選択は
正しかったろうか?と色々考えるようになりました。
別の道を選んでいたら、当然違った人生になっただろう、
それはどんな人生だったろう・・・等と、ぼんやり思ったりします。


(13:01)

 

海外旅行はやっぱり若いうちがいい



コロナ禍の中でも、旅行熱が復活しつつあります。
このクソ寒いのに、特急あずさにも結構人が乗ってるし。

旅行案内も、小金を持った老人向けの滞在型海外旅行の
案内が、連日新聞にデカデカと載ります

私はというと、もう海外旅行は特に行きたくもなし。
若い時に行って来ちゃっておいて良かったとしみじみ思います。

海外旅行自由化の翌年にニューヨークへ。高2でした。
ホームステイして、万博も見たしエンパイアステートビルにも上ったし、
バージニア州やナイアガラの滝、ホワイトハウスも見学しました。

大学2年の春休み、母校の団体ツアーで、30日間にローマ、ポンペイ、
カプリ島、フィレンツェ、ベニス、ミラノ、ジュネーブ、マドリッド、
カサブランカ、マラケシュ、リスボン、パリ、ロンドン、
アムステルダム、アテネ、カイロ、
南回りで帰国、という駆け足欲張りスケジュールの旅行に
参加しました。医学部のドクターも同行したので安心でしたが、
終盤は観光バスから降りないで(見物もしないで)寝ている人も
いたくらい、疲れました。
この頃から、大学生が卒業旅行で海外へ行くのが
流行り出したような気がします。

就職して最初のボーナスで同期の女性に強引に誘われて
ハワイへ。お互いに一緒に行くBFがいなかったから(?)(。-_-。)

結婚してマレーシアへ。出産2回の合間にシンガポール、タイへ。
日本へ帰任時に香港へ寄ったら現金入りのバッグを盗まれました。
香港大嫌い。(*`皿´*)

そして帰国してから、子供たちが中1、小5の夏休みに、
生まれた土地を見せに、一家4人でKLへ行きました。

それ以降、全く海外へは行っていません。
(夫はリタイアしてからも中国へ2回行っていますけど)
私は多分もう海外へは行かないと思う。

やっぱり、行くなら若いうちですね。
特に私みたいな出不精は。
因みに夫は現役時代、仕事で53か国訪れたそうです。
その間私に丸投げだった私生活はともかくとして、
悔いのないサラリーマン生活だったことは確かでしょう。

地球



(15:10)

 

我が心の駅、「渋谷」はもうなくなってしまった



子供の頃から、東横線の終点だった「渋谷」は
今や謎の迷路と化し、東横線に乗るにはどこをどう行けばいいのか
全く分からないので、実家へ帰る時は目黒経由の目黒線で
東急へ合流しています。

懐かしの東急文化会館、屋上のアーチェリー場、プラネタリウム、
渋谷パンテオン、地下の名画座もなくなってしまったし、
駅の大階段を上る前に、東横のれん街で買い物したり、
地下鉄銀座線に乗り換えて毎日通勤したり。
そんな痕跡も、跡形もなく消え失せてしまいました。

しぶや 昔の渋谷


変化について行かれない。
ああ、昭和は遠くなりにけり。

そういえば、大学3年間でほとんど単位を取ってしまったので
4年次は結構暇でした。
「数か月かけて、山手線を渋谷から回って、
一つずつ全部の駅で下車して、
駅とその周辺を歩いてみよう」
と目論んだのですが、結局面倒くさくなって実行しませんでした。

あれは、やっておくべきだった。

当時「アド街っく天国」みたいな番組があればねぇ。
良い動機付けになったと思うのですが。

渋谷、原宿、代々木、新宿、高田馬場、目白、池袋、巣鴨、
上野、秋葉原、神田、東京、有楽町、新橋、浜松町、田町
品川、五反田、目黒。山手線で降りたことのある駅はこれだけ。

西日暮里で降りて繊維街をうろついてみたいです。
高輪ゲートウェイという新駅も見てみたいです。

ただ、人がわんさかいる所が苦手になってしまったので
この歳で実現できるかどうか・・。


(18:55)

 

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プロフィール

MK(女性)

Author:MK(女性)
終活で戸建てからマンションへ
2020年2月に転居しました。
シンプルかつコンパクトに暮らす
丑年、水瓶座。趣味はピアノと
ドール。神奈川県生まれ。
長野県在住。

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